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加藤清正が石を引いたときの想像の絵
名古屋城をつくるには、たくさんの石や木材が必要でした。トラックがない時代にどうやって運んだのでしょう。堀川はお城をつくるためにほられ、船で運んだといわれたこともあります。 しかし、お城の石垣(いしがき)は慶長15年(1610)8月にできているので、慶長15年(1610)にほり始め、よく16年(1611)に完成した堀川では石を運ぶことはできませんでした。 石垣をつくるのには非常にたくさんの石を集めなければなりません。近くでは岩崎山(小牧市)や、三河(愛知県東部)、美濃(みの 岐阜県)などから、遠くは九州や瀬戸内海などからも運ばれてきました。遠くのものは船で熱田まで運ばれ、ここで陸に上げ名古屋城まで引いてゆきました。 加藤清正(かとうきよまさ)は天守閣(てんしゅかく)に使う大きな石を、布で包んで太いロープをつけて、五、六千人で歌をうたって力を合わせて引かせたので、熱田から名古屋城まで短い時間で運ぶことができたと言われています。また、今の中川運河のところにあった中川をとおって船で運ばれたものもあり、中川運河の近くにある運河神社には、石を加工した場所だったという石碑(石に文字をほったもの)が建てられています。
木材もたくさん必要で、天守閣だけでも38,000本使ったという記録があります。おもに木曽(きそ)の山から切り出され、木曽川を下り熱田へ運ばれ、一部は犬山で陸に上げて名古屋城まで運ばれました。天守閣ができたのは、慶長17年(1612)といわれていますので、工事の最初のころは堀川ができていませんが、あとには堀川をとおって木材が運ばれたかもしれません。
(CD 堀川ミュージアムより)
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